「有名な経済学者はお金持ちなの?」と考えたことはありませんか?
経済学者というのは、以下のような存在です。
- 超頭の良い知的エリート
- 人類の経済を発展させるための研究や書籍をバンバン公表する
- 政治家や官僚に、経済政策のアドバイスを行う
このように経済学者は、経済(=お金)のプロフェッショナルですが、実のところ彼らはお金持ちなのでしょうか?
そこで今回の記事では、「実はみんな経済的自由 伝説の経済学者たち」と題して、超有名な経済学者たちの懐事情について解説します。
今回の記事は、ある種「雑談回」ですが、学びもあるはずです。
ひょっとすると、「やっぱり実家の経済状況と遺伝が全てなのか…」と感じる人もいるかもしれません。
何を感じ、どのように人生に生かすかは皆さん次第です。
とにかくまずは知ることが大事なので、過去の偉人のお財布事情について一緒に勉強しましょう。
以下の図解を見てから記事を読み進めると理解しやすくなるので、参考にしてください。
▼図解:伝説の経済学者 ちゃんとお金持ち
目次
解説動画:【ズルい?】実はみんな経済的自由!伝説の経済学者達【アダムスミス・リカード・マルクス・ケインズ】
このブログの内容は、以下の動画でも解説しています!
実はみんな経済的自由!伝説の経済学者たち
リカード
マルクス
ケインズ
いずれも「歴史上、最も影響を与えた人物ベスト100」のようなランキングの常連です。
1人目:アダム・スミス(1723年~1790年)
今回紹介する「偉大なる経済学者リレー」の第1走者は、アダム・スミスです。
経済学の父とも呼ばれる、イギリスの経済学者です。
現代の資本主義は、アダム・スミスの影響を大きく受けています。
アダム・スミスは『国富論』において、以下のような内容を書き記しています。
- 自由な市場経済では
- みんなが、それぞれに「自分の利益」を追求すると
- 結局「神の見えざる手」によって、世の中全体がイイ感じになる
「神の見えざる手」という言葉は、聞いたことがある人もいるのではないでしょうか。
要は、「市場に任せて自由にやらせておけば、勝手に良い感じになるよ!」というワケです。
アダム・スミスは、1723年にスコットランドで生まれました。
スミスという姓はよく聞く名前なので、庶民的な感じを受ける人もいるかもしれません。
しかしスミスの両親はともにスコットランドの上流階級の出身で、ちょっとした地主層に属していたと言われています。
スミスの父親の年収は、亡くなる直前には300ポンドもあり、一般的な労働者の10倍近い稼ぎがあったそうです。
とはいえ、スミスが生まれた時にすでに父親は亡くなっており、一生遊んで暮らせるほどのお金はありませんでした。
そしてスミスは奨学金を使って大学に通学し、23歳で大学を卒業した後、失業状態になります。
転機となったのは、『道徳感情論』という書籍の出版です。
スミスの書いたこの書籍が、お金持ちの大物政治家、チャールズ・タウンゼントの目に留まりました。
彼はスミスの書籍を見て「コイツは天才だ!義理の息子の家庭教師にしたい!」と思うようになります。
タウンゼントは、スミスが絶対に「家庭教師の依頼」を断れないように、以下のような破格の報酬を提示しました。
- 家庭教師として、年500ポンドを支給
- 家庭教師を辞めた後も、年300ポンドの生涯年金を支給
その後いろいろあり家庭教師の仕事を終えたスミスは、今で言うところのFIRE(経済的自由&早期リタイア)を達成します。
何もしなくても、一般的な労働者の収入の10倍近い年金が入ってくるワケです。
年300ポンドの生涯年金があれば、好きなだけ研究に没頭できます。
そして小さな田舎町に戻り、母親と従姉妹と暮らしながら、あの有名な『国富論』を執筆したというワケです。
私の暇つぶしは、たった1人で長い時間をかけて海岸を散歩することです。
私はとても幸せで、心地よく、満足感に浸っています。
こんなに幸せだったことは、おそらくこれまでの生涯でただの一度もなかったように思います。
当時はそれほど珍しくはなかったものの、スミスは14歳で大学に入るような秀才でした。
しかしいくら頭が良かったとはいえ、経済的自由を獲得することがなければ、歴史に残る名著を書き残すことはなかったかもしれません。
以下にまとめるスミスのエピソードは、今からおよそ300年前の1700年代の出来事です。
- 奨学金を使って大学に通う
- アルバイトなどで食いつなぎながら学問を続ける
- なんとか一冊の書籍を出版する
- 書籍を通じて人生を変える出会いがあり、超ワリの良い家庭教師の仕事を獲得する
- 経済的自由を達成し、研究に身を捧げる
- 名著「国富論」が完成
2人目:リカード(1772年~1823年)
第2走者は、デヴィッド・リカードです。
スミスが亡くなってからおよそ10年後の1799年、イングランドの保養地バースの貸本屋で、スミスが書いた『国富論』を読んでいたのがリカードです。
リカードは、「自由貿易」を擁護する理論を唱えたイギリスの経済学者です。
リカードが歴史に名を残したのは、以下のような内容を数学的に証明したからです。
- どんな国も、自分が得意なことだけをすれば良い。
- 自分の「完全上位互換」の国があっても、気にしなくても大丈夫。
- とにかく自分が得意なことに集中すれば、国際貿易では皆がうまくいく。
リカードは、ロンドンで17人兄弟の3番目の子どもとして生まれました。
父親はポルトガル系ユダヤ人で、お金に強いユダヤ人のイメージ通り、株の取引で生計を立てていたようです。
リカードは14歳の時に父親の会社に入り、株や債券の取引を学びました。
転機となったのは21歳の時、プリシラと結婚するものの両親はこの結婚を認めず、リカードを勘当してしまいます。
このような時、お金に強い人はやっぱり有利です。
リカードは、友人から借金をして自分の事務所を開き、証券取引の仲介事業を始めます。
そして事業は大成功し、ほどなくして父親を追い越します。
さらにリカードの経済的成功は、これだけにとどまりません。
彼には優れた「事業家」という面の他に、凄腕の「投機家」という側面もありました。
彼はナポレオン戦争において、イギリスの勝利を見込んだ投機的取引を行います。
人生を賭けた勝負に出た結果、彼はその大博打に勝ちました。
そして目がくらむほどの莫大な財産を築いた彼は、43歳で引退を決意します。
スミス同様、リカードも現代で言うところのFIREを達成したワケです。
しかも彼の場合は、いわゆるFAT FIRE(=お金にとても余裕のあるFIRE)です。
FIREの種類について詳しく知りたい人は、以下の過去記事も参考にしてください。
リカードは引退後、「貴族のような生活を送っていた」と言われています。
ちなみにリカードが亡くなった時、彼はイギリスで最も裕福な500人の1人になっていました。
彼が暮らしていた豪華な屋敷は、現在故エリザベスⅡ世の娘、アン王女が所有しているとのことです。
そして晩年のリカードは、経済学の研究に人生を捧げることになります。
この時好き放題研究に打ち込めたのは、十分なお金があったからに他ならないでしょう。
彼は研究を進めるにあたり、やがて大きな難問にぶち当たります。
その難問とは、「富は、一体どうやって生み出されるのか?」というものです。
この時リカードは、アダム・スミスが『国富論』に記した考え方をそのまま継承しました。
すなわち、「富は、労働によって“のみ”生まれる」という考え方を採用したワケです。
- 土地を貸すことで受け取れる地代
- お金を貸すことで受け取れる利息
上記のようなものは、「新たな価値も何も生み出していない!」と考えました。
リカードの中では、労働者の労働こそ価値の源泉だったということです。
ちなみに皆さんが今も使っている「階級」や「資本家」という言葉は、実はリカードの著書で初めて登場した言葉だそうです。
まとめると、事業や投機で大金持ちになったリカードは、まるで自らを否定するかのごとく、以下のような説を唱えたワケです。
富を生み出しているのは、土地や金融資本ではない
富を生み出しているのは、労働者の労働だ
3人目:マルクス(1818年~1883年)
第3走者は、ドイツの哲学者・経済学者のカール・マルクスです。
マルクスは、次の2つの階級の対立を描いた人物として有名です。
当時のリバプールでは、上位層の平均寿命が35歳という一方で、日雇い労働者や使用人の平均寿命は15歳に過ぎなかったそうです。
マルクスは、「富は労働者が生み出しているもの」というスミスやリカードの価値観を引き継いでいます。
なぜ労働者階級がこれほど苦しい状況だったのかというと、それは資本家が「搾取」をしていたからに他なりません。
全世界の労働者たちよ、団結せよ!
そしてマルクスの考えは、社会主義・共産主義運動に強い影響を与えていきます。
社会主義・共産主義というのは、簡単に言うと「皆で等しく働いて、皆で財産を分け合おう」という考え方です。
このような主張をするくらいなので、マルクスはさぞ貧しい家庭で育ったのかと思いきや、実はまったくそんなことはありません。
マルクスの父親は弁護士で、上流階層だけが加入できる社交クラブのメンバーでした。
父親の年収は、街で上位5%に入る水準だったそうです。
さらに母親はお金持ち一族の出身で、マルクス自身も貴族の娘と結婚しています。
唯一の問題は、「マルクスの金銭感覚が崩壊していた」ということです。
例えば彼は大学生時代、親からの仕送りを受けて生活していましたが、まったく家計簿をつけず適当にお金を使い、なくなったらまた親に請求するということを繰り返していたそうです。
浪費癖のあるマルクスに、父親は以下のような手紙を何通も送ります。
それでも、マルクスの浪費癖が治ることはありませんでした。
一番裕福な学生が使うお金の約1.5倍ものお金を使っていたという話もあります。
そして父親の死後、母親はマルクスへの仕送りを一気に減らしました。
結果マルクスがどうなったのかと言うと、生活態度を改めるどころか、贅沢生活を維持するために、いたるところで借金をして回りました。
質屋の常連だったという話もあります。
これに見かねた母親は、仕方なく追加の仕送りをしたそうです。
このようにマルクスは、実家が裕福だったこともあり学問に没頭できましたが、このような生活は大学を卒業して社会に出てからも続きます。
マルクスは、この親友から生活費の援助を受けていたのです。
そして書籍『資本論』の執筆期間中には、マルクスはエンゲルスから現在の価値で約3,500万円ものお金を受け取ったと言われています。
自分がやるべき仕事を、エンゲルスにやってもらっていたこともあるようです。
その他、寄付金やかなりの額の遺産なども、彼の生活の支えになっていました。
要するに、自分の稼ぎだけで成り立つような暮らしはしていなかったワケです。
そしてマルクス自身は社会主義者でしたが、3人の娘には以下のようなブルジョワ的な教育を受けさせていました。
- 家庭教師をつけて語学を習わせる
- 絵、歌、ピアノを習わせる
- 高校に通わせる(当時では珍しい)
さらには、娘が「社会主義者の男性と結婚する」と言った際は、不満すら漏らしています。
自分が社会主義を唱えているにもかかわらず、娘が社会主義者と結婚するのは反対したワケです。
とはいえ、マルクスが、卓越した頭脳・才能を持っていたことは間違いないでしょう。
その点についは、同じ時代を生きた多くの人が、彼を「天才」と称しています。
一方で、実家を筆頭にした周囲からの金銭援助がなければ、相対的に見て裕福な暮らしを送ることはできませんでした。
だとすれば、学問や研究に没頭して『資本論』を書きあげることも不可能だったかもしれません。
とはいえ、金遣いが荒く、いつもお金が足りない貧困生活を送っていたマルクス本人は、そんなことは微塵も考えていなかったかもしれません。
ちなみにマルクスは晩年、正真正銘の「経済的自由」を手に入れます。
なぜなら親友のエンゲルスが、年350ポンドの生涯年金を約束してくれたからです。
4人目:ケインズ(1883年~1946年)
「偉大なる経済学者リレー」最終の第4走者は、ジョン・メイナード・ケインズです。
マルクスがこの世を去ったのと同じ年に、ケインズは産声をあげました。
ケインズは、今回紹介した経済学者の中でも、最も恵まれた家系に生まれた人物です。
ケインズの祖父
→ 造園業で大成功し、市長にもなった人物。現在の価値で400万ポンド(約6.6億円)の資産を残す。
ケインズの父親
→ ケンブリッジ大学で数学や経済学を学んだ後、ケンブリッジ大学の事務局長にまで出世する。
ケインズの母親
→ 政治家として大成功をおさめ、ケンブリッジ初の女性市長になる。
お金や才能の面で、ケインズの人生は極めて有利な位置からスタートしました。
生まれた時点で”上がり”が確約されている状態と言っても良いでしょう。
このようなエリート家系に生まれたケインズですが、本人自身も「THE・エリート」でした。
両親からゴリゴリの英才教育を施されたケインズは、以下のように優秀な経歴を残します。
- 私立の超・名門中等教育機関に進学し、貴族の子弟に囲まれて勉学に励む
- ケンブリッジ大学に入学し、12番目の好成績で卒業する
- 政府官僚になるための試験を受け、2位の成績で合格する
ケインズは役所の仕事を経験した後、ケンブリッジ大学に戻り経済学の研究者になりました。
給料が少ない時期は、彼の父親が「役所時代の給料と同じになるように」お金をあげていたそうです。
生活に経済不安がなかったことが功を奏したのか、彼はその後次々に有名な論文・書籍を出版し、存在感を高めていきます。
そして、国のトップ官僚たちから頼られる存在になっていくワケです。
さて、「名声」を手に入れたケインズですが、彼は「もっとお金が欲しい!」と思っていました。
贅沢な暮らしを当たり前にしていた彼にとって、大学の研究者としての給料は物足りなかったようです。
スーパーエリートのケインズは、自分は景気の推移を予測できると信じていました。
つまり自分は「未来を見通す水晶玉を持っている」と考えたワケです。
ケインズの投資手法は、以下のようになんでもアリという状態でした。
- FX(外国為替取引)
- デリバティブ
- コモディティの売買(綿花、小麦、ゴムなど)
- 個別株
さらにケインズは、レバレッジをかけた取引も行っていました。
皆さんもご承知の通り、短期取引の実態はギャンブルです。
なお投資と投機の違いについて詳しく知りたい人は、以下の過去記事をご覧ください。
ケインズの投機も例外ではなかったようで、
- 大金を稼ぐ
- 一気に大金を失う
- もう一度、大金を稼ぐ
- またしても全て失う
というようなことを繰り返していました。
ケインズは取引でミスをした際、以下のような”負け惜しみ”を言っています。
人々が支払い能力を保ち続けるよりも長く、市場は不合理な動きを続けることができる。
ケインズの言葉の中では、「株式投資は美人コンテストみたいなもんだ」というものも有名です。
そして紆余曲折を経て、ケインズは最終的には株式投資でしっかり財産を築きます。
ただし投資スタイルは、短期投資から長期投資に変わったようです。
世界恐慌があった1929年以降、1945年までの間にケインズの資産は23倍に増えました。
そしてケインズはボロ儲けをしていたこの期間に、かの有名な書籍『雇用・利子および貨幣の一般理論』を出版します。
歴史に「もしも」はありませんが、
- もしケインズの実家が太くなかったら?(=経済的余裕がなかったら?)
- もしケインズが投資・投機で大金を稼いでいなかったら?
まとめ:経済的自由を目指して、人生の可能性を広げていこう!
今回の記事では、「実はみんな経済的自由 伝説の経済学者たち」と題して、超有名な経済学者たちの懐事情について解説しました。
スミスは、超ワリの良い家庭教師の仕事で、生涯年金をゲットします。
そして経済的自由を達成後、『国富論』を執筆しました。